蜂蜜の壺

愛の溜まり場、言葉の液垂れ

なにもない日を過ごす、ということ

こんばんは、お久しぶり大根、はにたんです。

 

またオタクと関係ない話です。というか、もうここ、ほとんど自分語り備忘録の場になってきている気がする。壁打ちです。いつも目を通してくれる方々、ありがとうございます。今日もひたすら一人で球投げて打っていきます。よかったら見ていってください。

 

今日なんとなく書きたくなったことは「なにもない日を過ごす」ということです。

 

予定が入っていて忙しい日、例えば友達と遊ぶ日だったり仕事がある日だったり、そんな日は、まあなにかしらやることがあるわけですから、特になにか言うことはない、今回は。

 

問題なのは「なんにもない日」です。

 

忙しくしていると、そんな日がない人もそこそこいるかもしれませんが…、私は今身分としてはフリーターです。来年の4月から職に就きますが、いまのところ、フリーターです。なので、時間がまあ有り余ってます。アルバイトがない日は、家事のお手伝い以外基本的に何もないです。

 

その時にね、なんか毎回思い出すんです、小学1〜2年生の時の担任の先生(当時65歳)の話を。

自分が通っていた小学校では1〜2年生の間は絵日記を、3〜6年生の間では作文を、毎週書かなきゃいけなかったんですね(よく考えたら6年間ずっと毎週なにかしら書き続けてたのやばいな、えらすぎ)。

そうなると、みんな絵日記や作文の内容が「〜〜で遊んだ」とか「〇〇ちゃんに会った」とかそういうことが多くなるんです。やっぱり「誰かと何かした」というのが、いちばん書きやすい。当たり前だけど。

 

その状況に対して、担任の先生は保護者会で、「なんにもない日を過ごせる、ということが大事なんです」と言ったらしい(親談)。先生の言葉の真意は、「何かないと楽しいと思えない人間になってしまう」だった気がする、そんなことを言っていたような。

 

この話を聞いた当時、私はまだ、ダンゴムシを筆箱の中で飼って遊んでたような子どもでしたから、何かある日と何もない日との差を感じられるほど成長してませんでした。ダンゴムシが死んじゃったとか、泥団子がピカピカに磨けたとか、ドロケイで捕まっちゃったとか、うんてい・鉄棒で遊んで手が豆だらけになったとか、そんなことが私の世界の中心でしたから。今から考えたら、わかってないなりにも上出来じゃん?と思うけど。

 

なんとなく、ずっとその言葉が忘れられず、今でもたまに浮かぶんです、なんにも予定がない日に。すごいよね、人間の記憶。

親も、先生の言葉に感銘を受けたらしく、勿論お出かけや旅行もしたけれども、一緒にロールキャベツを作ったりお散歩したり、そういうなんもない日を一緒に過ごしてくれていた気がする。私の日記や作文はそういうものが多くなった。小学2年生の時に先生に選ばれた絵日記はツバメの巣を毎日眺めていた期間の話だし、小学6年生の時に先生に選ばれた作文は最高学年になって見上げた通学路の桜の話だった。

 

人生、なんにもない日の方が圧倒的に多いじゃないですか、多分。それをノーカウントで生きているのは、少しもったいないような気がする。これは私の拡大解釈だけど。

 

あと、「なにもない日のおかげで、特別な日が際立つ」みたいなのもあるけど、これは結構おまけ的な効果だと思っている。おまけのくせに効き目が強すぎるんだ。だけど、おまけだと思いたい。なんか、なにもない日が蔑ろにされている気分になるじゃん。私の中では「何もない日」が主役であってほしいので。上記の言葉は、特別な日が主役でそれを際立たせる「何もない日」みたいじゃん。ちがうってば(わかったわかった)。先生が言っていた、何かないと楽しめないにも繋がっちゃうし。

 

先ほど書いた通り私はいまフリーター期間を謳歌しているので、バイトの日と友達と会う日以外はなんもない日です。勉強もしなきゃなあと思うし、こういう推し活もしたいし、何かしなきゃどこか行かなきゃって気持ちがどこかにあるのも確かなので、うーん、どうなんだ。これは、なんでもない日を過ごせているのだろうか。

 

なんもない日に、何かしているというだけで、ちゃんと"なんもない日"を"過ごせている"気はする。なんもない日=じっとしていないといけない日、というわけではないし。少なくとも、こういうブログを書いているこの時間は、過ごせていると信じたい…。

 

 

日常的に感じる良い瞬間だったり、自分の感情の機微みたいなものを、こうやって逃さず言葉にして、見返してはまた味わいたいもんよ。それが私なりのなんもしない日で在りたいわね。